今さらですが、私の自己紹介

2019年4月1日

ブログの読者もTwitterのフォロワーさんも想像以上に増え続けてまして...今さらなんですが、自己紹介を兼ねて、ちょっとばかし経歴を書きます。過去に書きためてあったもの物の中から、抜粋してお送りします。ちょっと長いので、3回ぐらいに分けて掲載しようと思います。。

では、第1回目~

エンジン開発をしてますが、実は私の本業はIT関係なんです。
これまで、主にネットワーク構築とインターネット周りの
様々な業務をやってきました。
そんな私の紹介をちょっとばかり....

まずは50年前の古~~~い話しから。

パソコンとの出会いは...と言うか、まだパソコンが発売される前、
最初のパソコンALTAIRが発売されたのは1974年ですから、その
ちょっと前の話しから。

小学生の頃、まだパソコンなんて無い時代に、兄がマイキットなる代物を
親から買ってもらって、何やら男子の心をくすぐる電子工作をやり始め、
私はそれを横目で見ながら面白そうだなぁ...と羨ましく思ってました。

こんなの mycon

なんともレトロ、木のアタッシュケースに入っていて、カッコいい!
真ん中にトランジスタ? スピーカー、電圧計、コンデンサ等々に
カラフルなリード線が複数入ってます。

で、このリード線が良く千切れるんで、兄はハンダごても買ってもらってた。

この頃から、工作・実験大好きになったのは間違いないね。
みんなそうだよね?

残念ながら兄は、絶対に触らせてくれませんでしたけど。

兄がいない時に、こっそり、細いカラフルなコードをあちらこちらに
繋いでみたものの、何がなにやらさっぱりわからず、俺には向かない
と思ってみたり...

また友人の兄が電子ブロックなるものを持っており、それは
ブロックを組み立てていくと回路が繋がってラジオになったり
、これも間違い無く、男子が好きそうなやつ!

こんなの dblock

 

しかし、中学では野球部に。
何でかと言うと、その頃私は僻地に住んでいて、中学全部で男子は
20人ぐらいしかいなくて、野球部・陸上部・卓球部しか無かったのよ。
科学部とかあったら絶対そっちへ行ってたと思うけど仕方ない...

でも、兄は運動部には入って無かった。
今、思うと何でだろ?

そして中学1年の時に、ちょっと腎臓の病気で入院する事になり、
以来、運動は控えるように医者から言われて、めでたく運動部を卒業!
(で、何故かそこからギターにのめり込み...関係無いので割愛します。)

高校に入学すると、友人が持ってたんですよ・・・マイコンを! パソコンじゃ無いよ。マイコン!

フロッピーディスクもついて無くて、記憶媒体はカセットテープ!
1975年のSONYのラジカセ ラジカセ これがフロッピーの代わり。

で、これがフロッピーディスク 250px-Floppy_disk_2009_G1
(最近の人は何だか知らないと思うけど記憶媒体です。)8インチ、5インチ、3.5インチ

これで容量は今の指先に乗るUSBの何十万分の1か....最初は80Kb メガでもギガでも無く。

そして、プログラムを打ち込んで...と言ってもbasicなんて
知ら無くてプログラムは、もっぱらマシン語!

BASICを知らない人はググってね。)

友人と二人で、ひたすら「ゼロいちゼロぜロいちゼロいちいち・・・
ゼロぜロゼロいちいち・・・・」雑誌の記述を見ながら、一人が数字を
辿って、一人がマイコンに数字を打ち込む「0100101100011...」.....

気の遠くなるような作業を延々と2~3時間繰り返して、RUNさせると画面に何かが
映し出され・・・・・無いんだなぁ~これが!! 腹立つ!!!

で、どこを間違ったのかひたすら追っかける....
..と友人が「あ~、ここゼロが一個少ない!」とか見つけて修正。

一度で成功した試しが無くって、長いプログラムだとその日のうちには
終わらなくて、翌日になったり、私は数回でもう飽きちゃった。
だって面白く無いんだもん。
成功してもなんか簡単な線画が動く程度。

3マスの中に〇とか×とか...
———–
〇|〇|×
———–
×|×|〇
———–
〇|×|〇
———–

オセロも出来ないじゃん!

そんなんで急速にマイコンから興味を失ってしまいます。
友人は飽きずに続けて、その内BASICも覚えてたみたいですが。

そして、高校卒業と共にマイコンからはサヨナラしました。

就職して10年間はパソコンにはあまり縁が無く過ごしてたのですが、
27歳になってから、パソコンと急接近します。

(このパソコンと離れていた10年間の話しも、色々と波乱万丈で自分的には非常に面白いんですが、今回は関係無いので割愛させて頂きます。..機会があったら書く)

話は変わって、いきなり1988年、
とあるパソコンの販売会社に就職したところから。

それまで、旅行会社>プータロー>広告会社>プータロー>旅行会社>日本一周>と
渡り歩いてきて、札幌市内にある、医療系が中心のパソコン販売会社に就職
しました。

私の兄は、子供の頃から興味をずっと失わず、高校卒業後は東京の
電子〇〇院という専門学校に進み、そのままソフト開発会社に就職しました。

就職した当時は30人ぐらいだった会社があれよあれよと言う間に600人規模
になり株式を公開!
一時はYAHOOに買収されて子会社に..その後どうなったんだっけ・・・

今はその会社のチーフ?エンジニア?
最近話しをしてないので、良く知りませんが、全国の皆さんが非常に良く知ってる
とある会社のWebサーバーのプログラム関係をやってたはずです。

ま、それは、置いといて。

私にとって兄は、趣味の合わない変人ですが、私が諦めちゃったプログラムに
ず~っと取り組んできた人。
認めたく無いけど、私から見たらスーパーマン。
そこにしびれるあこがれ・ないけど。

少し羨ましくもあり、再就職して、どうせ一からやり直しなので、
いっちょパソコンでもやってみるか!ってな具合にとりあえず、募集が出てた
会社に面接に行きました。

社長以下、社員5名の小さい会社でしたが、そのぐらいが身の丈にあってて
まぁいいかと思い就職しました。

営業で入ったのですが、私の担当大学医学部は、北海道大学。

ひたすら毎日北海道の中を下から上までくまなく歩いて
パソコンを売っていく仕事。

なんか大変そうでしょ!? map この水色の巨大なとこをひたすら歩く

でもね、これが不思議なぐらい苦労は無かったのよ。
当時パソコンは1台2~30万円ぐらいしてて、マックなんて100万円
してましたが、それこそ飛ぶように売れてました。

一般の会社では、まだそんなに爆発的に売れてはいない時代に医療関係には
もの凄ーくよく売れました。

NECの新製品が発売されると、デモ機を持って大学の医局に行って、
お披露目すると、その場で注文が入ってました。
そんなに苦労する事無く、どんどん注文が入ってきたんです。

面白い事がありました。
病院の先生(と言っても若い先生1~5年目ぐらい)が何のためにパソコンを
買うのかというと、もっぱら学会で発表する資料づくりの為。

データ化する、統計を取る、資料を作る、等に使われてたのですが、
若い先生は、30万円もするパソコンを買ったはいいけど、ソフトウェアまでは
買うお金が無い。

で、どうするかと言うと、先生が何をやりたいのか聞いて...
私が先生の代わりに医薬品メーカーに営業に行きます。

で、「〇〇先生が〇〇したいと言ってるのですが・・・・」と言うと
医薬品メーカーの営業さんがソフトウェアを買ってくれます!

私は医局に行ってパソコンを売り、医薬品メーカーに行ってはソフト売る。
大学とメーカーの間を行ったり来たりして売上を上げてました。

当時、大学病院の医局に行くと、医薬品メーカーのMRと呼ばれる人たちが
ずらーっと立って入口の横で大先生が出てくるのを待ってるっていう、
まさに白い巨塔の世界。

でも世の中に出たばっかりのパソコンに詳しい人は、大学の偉い先生からも
先生と呼ばれる、ちょっと面白い関係性で、メーカーの人が立ってる横で、
私はソファに座って、どこかの医薬品メーカーが差し入れた豪華な弁当とかを
勝手に食ってました。

大先生と仲良しの私は医薬品メーカーの人達が一目置く存在になっており
営業はとても楽ちんちん。

営業にはそんなに苦労しないで済んだので、空いた時間でプログラムの
事を少し勉強したり、わかったような気になっていました。

いい時代だったなぁ~

やがて、大学病院以外にも自分の顧客が少し増えてきたところで、
独立しようと模索し始めます。

パソコンの使い方を覚えて2~3年、真剣にこれを自分の仕事にしようと思い、
30歳になるのを機に独立する事に...

そこから人生が激変します。

—–

まず、最初にやった事は、世の中の印刷物がデータ入稿になった事で、
パソコンでのデータ入力業務。

それまでやってた医療系の仕事は前職と被るので、バッティングしないところで
仕事しようと思ってました。
(一部自分の顧客の仕事だけは続けてましたが)

それまで印刷物はパソコンで原稿を作ってって時代じゃなかったんですが
印刷屋さんから原稿を渡されて「これをパソコンでデータ化してくれ」って
よく頼まれてたので、それを専門にやる会社を立ち上げました。

いや大変でしたよ、1文字1円ぐらいなんですが、元となる原稿は、
ほとんど手書き原稿...中には文字が読めないのもあるし...
入力ミスがあると、怒られるし、その分手数料を差っ引かれるし!

で、1990年ぐらいになると、どんどんパソコンが普及してきて、
あっと言う間にデータ入力業務なんて斜陽産業に....

1年で1,000万以上の借金を抱えて終了~
会社経営の経験なんてなかったので、傷が大きくならないうちに
撤退して良かったと思ってます。

その後は、とりあえず31歳だったのでまだ身体は動くし肉体労働(電気工事)しながら
夜はパソコンのサポート業務みたいな事をやってました。
パソコンが普及しだしたのと同時にサポートの需要も増えたって事なので仕事は潤沢にありました。

そして、
ある医療系の会社から、病院と臨床検査会社との間を電話回線で
結んで、検査データの送受信をやりたいから、そのネットワークを
組んでくれとの依頼があり、パソコン通信ソフトの設定などをしてました。

この経験が、後のインターネットとの関わりに大きく影響してます。
1990年頃でしょうか。

当時のパソコンのネットワークといえば、社内のネットワークであれば、
ネットウェアLotus Notesっていう環境が人気で、まだMicrosoftは
今のような圧倒的は地位は築いてはいなかった。

マイクロソフトは、MSDOSから次のOSに移行するにあたり最初は
IBMと共同でOS2というOSの開発をしてたはず、そのころネットワークに対応
する為にLANマネージャーってのを開発して、最初はこのIBMと共同開発した
OS2に載せて、ネットワーク対応に乗り出したんだったかな。

でも、しかしマイクロソフトはOS2に早々と見切りをつけて自社開発の
Windowsに主力をもっていった。
当然、LANマネージャもWindwos3.1に搭載された。(しかも無料だった)

これが後の、爆発的なヒットになるWindows95に繋がっていくんだよなぁ...

で、Netwareがサーバー用とクライアント用に対応するOSだったのに対して
Windwos3.1はサーバー用じゃなかったので、サーバー用のOSとして、
WindowsNTってのを開発する事になる。

これが、私がインターネットに飲めりこむきっかけとなるOSですが、その話しは後で。

お客様の要望で、WindwosNTでのネットワーク構築をする事になるのですが、
医療業界の人達はさすが、何と言うか海外の情報にも目敏くて、米国で発表されたばかりの、これを
使いたいと仰る...

で、WindowsNTを仕入ようとしたら...まだ日本で発売されて無かった!
仕方ないから、たしか日本NCR(親会社がアメリカ)ってところから、
たった一つのWindowsNT3.1を輸入してもらってインストールする事に。

営業の人曰く、間違いなく北海道で最初のWindowssNT...だそうです。

...が、しかし!
これが、上手くいかないんだよ~~~
そのそも日本語化されて無いからマニュアルも英語だし~~~

マニュアルの出来も...よくわからん。

当時、MSDOSも日本語版はNECが作ってて、PC98xxシリーズには、
そのまま英語版のものはインストール出来ないから日本語化した
OSを使ってた訳だし。

WindowsNT3.1も、たぶん、そのままじゃインストール出来ないんだろう
と思いながら作業してた。
不具合があって上手く動かなくても、それが設定の問題なのかOSの問題なのかは
不明のままだったけど...OSのせいにして、

なんだこの腐ったOSは!..毒づきながら作業してました。

パソコン通信で、電話回線を通して離れたところのPCとはデータの
やりとりが出来るのに、隣の机の上のパソコンとは繋がらない!

...もう、どうやってLANを組んだのかも覚えてないです。(^^;

そもそもTCP/IPがよく分かって無かった。

(TCP/IPを知りたい人はググってください。説明してもいいけど長くなるので割愛)

そんなこんなで1991年が終わるころ。
インターネットが始まります。
正確には、大学間ネットワークとかが出来たのが1988年ぐらい?
NTTと米国が繋がったのがその翌年の1989年ぐらい。

しかし、1991年じ初めてJPINICっていうIPアドレス・ドメイン名の割当て業務が
スタートする事になるので、民間でインターネットをするのは1991年以降ですね。
それまでは、大学とかそういところにしかネットワークが繋がって無かったはず。

その頃は1987年から始まった NIFTY / ASCII / PCVAN っていう所謂パソコン通信が全盛の頃、うちの兄と言えば会員番号が2桁台...相変わらずマニアックだなぁ...

 

私はと言えば、先述したようにパソコン通信を利用したクライアントサーバネットワークを作ったりしてましたが、ある日、友人がニフティの中の何かのフォーラムのシスオペになったから、そのボードを使って、北海道の物産を全国に紹介する業務をやろうと言っていたのが、1993年の終わり頃だったでしょうか。

北海道物産の通信販売をパソコン通信を使ってやろうとしたのは、
先進的・画期的でしょ?

現代のインターネット環境では当たり前の事ですが、27年前だぜ!
・・・札幌にいる周りの人は誰も相手にしてくれなかったけど...

そんな訳で1994年から環境づくり、会社どうするか等、動きはじめます。
しかしながら、パソコン通信も個人の趣味的なサービスであり、そこを使って
商業サービスをする事には多少問題があったり、いろいろやってるうちに、
1年があっという間に過ぎます。

・・・もうだいぶ昔の事だから、ちょっと記憶が曖昧ですが、
実は1994年には、IIJ(インターネットイニシアティブ)という会社が商用のインターネット
サービスを開始します。

友人が何かインターネットっていうサービスが始まるらしいよって言うので、
ちょっと調べてみたり....が.....これがえっらい高い!
確か月額20万円ぐらいだったような...
大企業向けのサービスなんだろうと思い、私達には手が出ないと思ってました。

そしてある日、書店でインターネットマガジンの創刊準備号を手にします。

そこには、商用民間プロバイダーの広告がいくつ掲載されていて、費用も
IIJに比べたら10分の1!
・・・ってよく見たら、+3分〇〇円の従量課金制!

始めて繋いでみて、1ヶ月の電話料金の請求が7万ぐらい来たでしょうか...たかっ!

そうやって、初めてインターネットに繋がったのが、1994年。

多分、大学関係者とかNTTの人とか以外の民間人では北海道では初めてインターネットに繋いだ人だと思います。 えっへん!

 

さてさて、やっとインターネットの話しが出たのですが、長くなったので続きは次回!
...って言うかエンジンの話しは最終回まで出てこないよ!

お楽しみに~

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